かくしごと(空色MIX)

webライターっぽい女のオタク気質ライフ。 ライブレポ、何かの感想、日常、思考整理。まずは素直な文章を。

すべてに意味があるという呪縛と、ハヤシライスのやさしい偶然

8月ですね!暑い!

7月は前回のブログでも書いたような出来事があったり、それ以外にも自分自身や今後を見つめ直すことが多い月になりました。

それでもこうして生活を続けています。

前回の記事を小沢健二ファンの方に見つけていただいたり、感想をいただいたりして

重い話にはなるけれど書いてよかったと思えた。ありがとうございます。

彼の音楽への情熱やそこにいた記録を少しでも届けることができたのなら嬉しい。

本人に教える術が現代で見つからず歯がゆいが、

みんなで小沢健二トークをしたらきっと朝までコースになるだろうとも思った。

 

 

おそらくあくまで精神的に、という意味にはなってしまうのだが

「とにかくどんな状態でも生きていかなければ」と思った後の生活は

変な話、大変ではありつつ生きやすくなった部分もある。

無意識の覚悟とでもいうのだろうか。

 

何か嫌な出来事があっても

自分に自信がなくなっても

「まあ、でも生きていくしがんばろ」となり

どこか不調を感じてちょっとした検査をして、まあ問題はないけれどもきっともっと良い人もたくさんいるよな。的な結果が出た先日も、

「とはいえ生きていくし」で絶望しすぎずに済んだ。

無理矢理ハッピーに結びつけることは難しくても、どういう気持ちでも生きていくし、という具合だ。

 

元々とにかく生きていたので、変な話ではあるけれど。

 

無理をするわけではなく、

前向きに変換しすぎるわけでもなく

ただ受け入れること。

努力でどうにかなるものならば努力をし、

格好悪くても、もがくこと。

どちらも並行していい感情だと知った。

 

もがきながら現状を見つめて、

「在るもの」に目を向けて

とりあえず前に進むしかない。

とりあえずで全然いい。生きてさえいれば。

 

 

以前、好きなミュージシャンが

「何を得ようと何を失おうと、どうせ時は前にしか進まない」と発言し

根底にあきらめが溢れている表現に

心配しつつもちょっと安心したことがあった。

(そのミュージシャンが10代20代で作り上げた、陰鬱とさっぱりした希望が共存した世界観が大好きなのだ)

 

最近そんなことをよく思い出している。

 

もちろん、できれば失いたくないけども。

 

 

今日、ある話の最中に

「起こることには全て意味があるって言うからね」

という言葉が出てきた。

 

よく聞く話かもしれないし、

前向きな解釈とも思うのだけれど

私はこの表現にいつも少しの違和感を覚えてしまう。

 

「全てではない、とは思う」

いつもはやり過ごすが、今日は言ってしまった。

 

「いや、そうなんだよ。意味はあるんだよ。」

 

その返しから、なんとなくそれ以上の説明を避け

「全部じゃないだろうけど、そういうケースもあるなと思う」

と正直な気持ちを告げて話題を変えた。

 

 

私が表現に敏感なだけかもしれない。

ただ、どう考えても「全て」に意味があると決めてしまうのは辛いことだと思う。

 

誰かが亡くなることや病気や自然災害、

残虐な事件、思い出したくもない記憶

この世界には色々な「どうにもならないこと」がある。

それら全てを引っくるめてそう言えるのだろうかと

本当は聞きたい。

 

「そういう話をしているのではない。それは屁理屈」となる可能性はあるが、

では「全て」ではないのだから、注釈をつけてほしいと感じる。

(自分が面倒くさいことを言っているのも重々承知です。ごめんよ)

 

私自身がどんなに成長できたとしても、

あの子は戻ってこない。

そんな「意味」なら無いほうがいいし、

意味もなく生きていてほしい。

 

 

裏切りや失恋、転職、迷い。

思いつきで立ち寄ったお店がきっかけで新しい出会いや趣味を見つける。

結果的に今は幸せだけど、あのときあっちを選んでいたらどんな人生になっていたのか。

そういう後付けの

「あのときの偶然で今がある」という喜び、

「あのときは辛かったけど、経験していて良かったな」という痛みに対してなら

私も同意見なのだけれど

事故や突然死や辛い病気の事実に「全て意味があるんだ、あったんだ」とは思えない。

 

そういう言葉の呪いはできるだけ解いていきたいけれど

頭ごなしに考えを否定するのも違うなとも迷うし、言葉のあやもあると思うし、

うーん、難しい。

 

辛いことや痛いことなんて、無くていいのであればもちろん無いほうがいいと私は感じている。

自分の悟りより誰かの命が無事なほうがいい。

 

 

以前、がん経験者の作家の方が

「がんになって良かったとは絶対思えないけれど、病気になって色々なことを学んだ」

という主旨の話をされていたのだけれど、

その考えがとても好きで。

「こういう意見が表に出てきてよかった」と、

とても身勝手な感情を抱いてしまった。

なぜだかとてもホッとしたし、その方の素直な発言に柔軟さと強さを感じた。

 

起こることの大半にきっと意味なんてないけれど、

ものすごい偶然に運命ってものや希望を抱けることはあるし

悲しいことが起こってしまったら

それに対処していくしかない。

その過程で学びや発見があっても、「こうなって良かった」と思えない場合は思わなくていい。

そういうミルフィーユみたいな繰り返しが人生の足あとになっていく。

きっとそれだけだ。

 

 

ポジティブな言葉と同じぐらい、

「そうなって良かったとは言えないけれど」

の前置きが許される世界であってほしいし

「意味がある」という呪いが辛くなった人がいたら

その考えをやめていいよ、とそっと言える(思える)人でありたい。

 

 

そうそう、前回話した音楽仲間の彼がよく行っていた

レトロな喫茶店に行ってきました。

 

f:id:megumirai_words:20190805011105j:image

相変わらずおいしかった。

暑い日だったからアイスコーヒーをセットに。ごくごく飲めて心地良い。

 

このクリーミーなハヤシライスを一緒に食べたのだよなあと思い出しつつ、

後輩たちと彼の話をした。

童顔の後輩は、彼がひょんなことからTik Tokにチャレンジした動画を所有していた。

本人的にはトレンドの研究も兼ねたTik Tokデビューだったのだろうが、

動画の彼やみんながただ純粋に楽しそうで和んでしまう。

 

「この店といえばやっぱり◯◯くんだよねえ」

「◯◯先輩、平日は絶対に洋食を食べると決めているんですって言ってました」

「そうなのか、なぜ頑ななのだ。いつからそのルール適用されていたんだろ」

 

ほんと知らないことがまだまだあるなあ。

謎ルールについて本人に聞きたいのだけど、それ以上に本人がいない謎ができてしまった。

 

「お別れの日に見た顔がいつもと違ったので、私、正直まだ信じてない部分があります」

「違う場所で今も働いているような…そんな感じです」

童顔の後輩はそんなことも話してくれた。

 

顔には綺麗に化粧が施されていた。

面影もあったように思えたが、

そう思うのも無理はないし、

その考えも少しありなのかもしれないと思った。

 

私たちがハヤシライスを食べている間、

お店の方が顔見知りらしきお客さんと会話していた。

会話の中で突然彼と同じ苗字の人物が出てきて、瞬間的に驚いた。

え?みんな知り合い?とひそかに動揺するも、

その後のやり取りから、私たちの知る彼とは別の人物を指していると判明した。

(職業が違った、と思う)

 

その後も彼と同じ苗字であるその人物の名前を何度も口にしながら会話を進めていくお店の女性と

うんうんと話を聞くお客さん。

不思議な気持ちになりながらスプーンを口に運ぶ私。

 

彼の苗字はとても珍しいわけではないけれど、

そんなにピンポイントで多いわけでもない。

クラスや部署で一人いるかいないか、たまに二人被るか、ぐらいだと思う。

 

いや夢見がちに言っていいなら、

「行ったのバレてたん?」

 

君の好きなメニューをみんなで食べに行きたかったのだよ。

 

偶然だけど、

こんな偶然には、優しい意味を込めてしまいたくなるものだ。

 

 

「そういうケースもある」

 

全部ただのこじつけだと否定しきれない理由は

時にはこういう不思議な偶然があることを知っているからかもしれないし、

願っていたいからなのかもしれない。

 

 

起こることの大半にはやっぱりきっと意味なんてないけれど、

ものすごい偶然に運命ってものや希望を抱けることは

確かにあるんだ。

 

ハヤシライス、おいしかったよ。

 

 

さて次は何を書こうかな。

ちょっと8月は少しゆるめにブログを使っていこうと思います。

構えすぎて日常の何気ない発見が埋もれないように。

 

熱中症には気をつけつつ、夏を生きていきましょう。